001.国領経郎


1.国領経郎「山手風景」写生地

 国領経郎「山手風景」は1937年に描かれました。生年は1919年ですから、18歳の時に描かれた作品ということになります。まだ画家とも呼ばれない時期でしょう。この作品を目の前にして二つの興味が湧きます。

 一つは、後の作品において点描法による風景画を試み、さらには砂のある風景を多く描くようになりますが、この作品から当然のことながらその片鱗さえ感じとれません。しかし将来に向けての限りない可能性を秘めていることを実感させます。幾多の天才もこういう時期を経てその作風を完成させていくのだろうと、そのことに感動します。ただこの場の目的は別なのでこれ以上の深い追いはしません。

 一つは、「山手風景」とありますが、写生地が山手のどこかです。緩やかに右カーブを描いて下って行く坂道、左右から突き出している丘、遠くには海が見えているように思えます。山手をいやという程歩きましたが、現在、目の前に密集する建屋で視界が遮られて、これだけ広がりのある風景を望むことは不可能です。どこかわかりませんが、左右から突き出している丘にも建屋が密集しているでしょうから、余計に遠望が利きません。

 写生地は文献調査で意外に簡単に判明しました。とある文献(*1)に『この絵を描いたのは山手のどの辺りか、まったく覚えていないが、ブラフという名のホテルのまえのような気がすると国領さんはいった』との記述を見つけました。ブラフは街歩きのキーワードの一つにもしていますが、後の山手居留地のことです。今でもブラフなになにと呼称する店舗があります。ブラフホテルはどこにあったのか。

 結論を言えば、ブラフホテルは往時の彩色絵葉書にその姿が記録されていました。現在の山手町2番地に建てられていたホテルです。そして山手町2番地は往時と現在とで変化はありませんので、興味あれば調べて頂きたいのですが、かつて関内方面と本牧方面を結んだ主要道路である地蔵坂から桜道、地蔵坂を上りきって少し桜道を下りかけた辺りです。

 前述のように、この辺りに立って見えるのは建屋ばかりです。あまり鮮明ではありませんが、地形図を描かせた(*2)のが次の図です。山手2番地から本牧方面に向いて描画しています。大地のうねりが作品の感じにかなり似ていると思っていますが、いかがでしょうか。

居留地時代までは遡れませんが、太平洋戦争前の山手の様子が知れたように思います。

  参考 *1 芸術の中の横浜
     *2 カシミール3D

(2016年8月31日作成)

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