002.兵藤和男


1.「樹と道」写生地

 「麒麟麦酒開源記念碑」が建立されているキリン園公園(中区千代崎町1丁目25-21)。道を挟んだ北方小学校に沿って反時計回りに進むと、体育館らしき建屋横で丁字路に差し掛かる。ここが「兵藤和男・樹と道」の写生地、様子は変わっているが面影は残る。

 『横浜山手の丘裏中腹にシイの古樹がある。港の見える丘公園前からキリン園公園方向に降って、北方小学校の東側、Y字に交わる道路の傍らにその樹はただ一本そびえるように立っている。大正時代、欧米の生活スタイルに惹かれた谷崎潤一郎が、本牧から移り住んだ山手二六七番は目と鼻の先である。起伏が多く、小さな谷間が方々にあって少し歩くだけで景観が一変するこのあたりは、いまも案外ひっそりとしている。

 旧居留地の開港以来の変遷を見つづけてきたであろうこの樹に、画家兵藤和男が初めて向きあったのは昭和十六年、二十一の歳だった。その樹の後ろに広がる光景を描いた作品『教会の見える風景』は、翌年秋の独立展で初出品、初人選作となる。兵藤はそれから四十代、六十代、八十歳代と、自分の人生と画業の道標を刻むように、ほぼ二十年おきにこの樹に向きあい描いてきた。

 六十三の歳にその樹を描いた『樹と道』を日本橋三越の個展で発表したとき、兵藤はこの樹にことよせて「絵画の断想」という一文を美術ジャーナル誌に請われて寄せた。それは画家兵藤の作画態度、作画哲学のほとんどを語りつくしたものと思われる一文である。すこし長いが、序にかえて抜粋引用する』(*1)

 大きな樹はなかった筈だと思って確認に出かけた。次の写真は最近の様子(2016年7月末)だが大きな樹は見当たらない。しかし奥へ延びる道、その右手が小高くなっているよう様子、雰囲気は伝わる。左手奥の尾根近くの一際高い建物は何だろうか。さらに調べを継続したい。

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「樹と道」写生地付近

 引用にある「谷崎潤一郎が、本牧から移り住んだ山手二六七番」は、道の奥右手だ。現在は他人が居住しているようで、建屋も往時のものでないと思える。あるいは石垣はどうだろうか。これも調べを継続したい。

  *1 「兵藤和男と横浜の画家たち」

2.「横浜山手風景」「本牧風景」写生地

 「横浜山手風景」は平塚美術館蔵、「本牧風景」は横浜美術館蔵。これら作品写生地をスポットで示せないが、「樹と道」の背景として描かれた尾根道付近のどこか、すなわちワシン坂上辺りになる。

 『私は大概大通りを小港寄りに行き、適当な横道に入り山手の裏側に出る。山手は起伏が多く、小さな谷間が方々にあり、一寸歩くだけで景観が一変する。死んだ山中春雄氏(行動)宅もこの谷間の中の一つ。裏側の丘は案外ひっそりしている。バス豆口行で北方小学校前でおり、歩き廻るとよい。ただ、作画中、小学生の一団や外人の子供のうるさい奴にぶつかることもあるが。  或いは市電千代崎町でおりる事も多い。やはり山手の裏側に出る。丘に昇れば本牧の海も見える。国際具象展(注:1962年開催)の私のモチーフはこの丘からだ。此処からの写生帰りの夕方、千代崎町の道で山中氏によく呼びとめられた。一日の作画を終えた彼が疲れを癒している酒屋、その前を私が通るのを見て、店を飛び出し、私に声をかけるのだ』(*2)

 兵藤の言う裏側とは、関内方面から見て山手本通り、すなわち港の見える丘公園から南に延びてフェリス前を通り、山元町に至る曲がりくねった道の向こう側と言うことだ。さんざ歩いたが、建屋が混んでいて視界は開けない。風景が変わりすぎている。

  *2 「兵藤和男」

(2016年8月31日作成)

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